伝右衛門から「前妻との間に子どもはいない」と聞かされていましたが、実は愛人との間に娘がいたのです。
井上洋子 『西日本人物誌(20) 柳原白蓮』、。
その後も娼婦の救済活動は続けられ、(3年)にも吉原から子持ちの娼妓が宮崎家に駆け込んでいる。
白蓮事件 燁子とともに白蓮事件を引き起こした、3番目の夫である宮崎龍介。
龍介は、そんな平凡ではない夫婦の長男として熊本にて誕生します。
「筑紫の女王」と呼ばれた歌人白蓮が炭鉱王伝右衛門を捨て、7歳年下の愛人との駆け落ちするというスキャンダラスな出来事に世の中は騒然となりました。
生い立ち [ ] に生まれた。
師であるは、私生活を赤裸々に歌い上げる内容に驚き、本名ではなくの使用を勧め、信仰していたにちなんで「 白蓮」と名乗ることとなる。
7歳年上の資武は、彼女が他の男性と同席するだけでも、嫉妬して手をあげるなど容赦無く暴力をふるう男でした。
当時であれば姦通罪。
(昭和6年)遺族の国賓として龍介と中国訪問。
新聞・雑誌に身重の燁子が京都の寺にしばらく匿われた事、また尼になったなどという記事が載るが、龍介はそれを見るばかりで全く連絡がとれない状態になる。
女学校ではずっと年下の生徒たちとも打ち解け、中でも後に翻訳者となるとは親交を深め、「腹心の友」となり、信綱を花子に紹介している。
生まれてまもなく正妻の娘として引き取られました。
そのような前向きに努力をする姿勢が、周囲にも好印象に映っていたに違いありません。
16歳頃の燁子 だが、夫となった 北小路資武には知的障害があったといわれており、燁子への暴力や、女中との浮気はしょっちゅうだった。
新聞での反響は、第一報では燁子の行動を止むを得ない、という同情する世論があったが、二報・三報と詳しい内容が伝わってくるにつれ、糾弾すべき行為とする割合が増えている。
(明治38年)北小路資武と離婚。
あるとき右翼の壮士が家に乗り込み、龍介が刺される事を警戒した母のが着物の下に袋に入れた真綿を着させ、弟の震作が木刀を持って襖の奧に控える中、罵声を浴びせる男達にひたすら黙って龍介が対応した事もあった。
同じ頃、燁子の出産をめぐり、宮内省から再三に渡って法律上は自分の子として入籍するよう迫られた伝右衛門が、1歳の香織が実子でない事を証明する子否認の訴えを起こしている。
夢見ていた女学校の経営については、伝右衛門の「金は出すが口は出さない」主義で叶えられることはなかった。