この人は15才からレスラーをやっていた。
そしたらレストランで馬場さんと元子さんとレイスが飲んでるんだ。
まさしく『ミスターNWA王者』とも言えるレスラーだ。
もし、レイスがいなければ契約に厳しい馬場のことだ。
NWA王者時代は試合の流れを変えるのに多用し、この技の第一人者と言われた。
残念でならない。
見せるための筋肉は彼に必要なかった。
自分を入れないで世界一とは何だ、位の気持ちだったのだろうが、追い回したのはブッチャー一人。
リック・フレアー。
しかし、細かい技の破壊力は相当でしょう。
しかもこの頃のレイスは、ドリーはもちろん、まだ現役だったシニアとも試合をしている。
結果、勝てないから王座も移動しない。
しかも、全く異質のレスラー同士だ。
燃え上がる気持ちがあるかどうか。
と言いたいが、小林がボディ・スラムで投げたのはアンドレ・ザ・ジャイアントではなく、モンスター・ロシモフだった。
WWFではボビー・ヒーナンをマネージャーに迎え、当時ヒールターンしていたアンドレ・ザ・ジャイアントとも共闘した。
NWAに加盟したため『世界』の2文字すら付いていない。
ただ、この2度はいずれもレイスが巻き返し、馬場は1週間天下に終わっている。
だが、これだけの実績があるにも関わらず、日本での人気はやや薄いと言わざるを得ない。
腕自慢の素人など、観客から挑戦者を募って勝負するカーニバル・レスリングにおいてシュートの実戦経験を積んだ後、ミズーリ州セントジョセフのプロモーターだったグスト・カラスの仲介で1960年より通常のプロレス界に進出。
勿論没収試合になったのだが、ブッチャーが引き揚げた後にリングに戻ってきたレイスは、血だらけの頭で鉄柱にガンガン(音をマイクが拾っていた)ぶつけてみせた。
しかもジャイアント馬場という規格外の体格を誇るレスラーを投げるのは至難の業。
:8回• 以降もランディ・サベージやジム・ドゥガンなどを抗争相手に、1989年初頭まで在籍した。
しかし、そんな中で新日本プロレスの中継番組であるテレ朝系『ワールドプロレスリング』で、ハーリー・レイスの名前がクローズ・アップされたことがあった。