これは仏教が世界中に広まっていくきっかけにもなったのですが、ブッダの死後100年ほど経過すると、それまでの決まり事や伝統を守ろうとする 保守的な信徒と、状況や環境によって決まり事を調整していこうとする 革新派な信徒に分かれていきます。
日本はもちろん大乗仏教になります。
例えばレシピにある、「 塩を小さじ3杯」を理解するために、文献学や考古学で、塩の語源や、文化を調べても分からないでしょう。
だから、2点でほぼ正しいのですが、菩薩への修行には、釈迦. なぜなら私たちの本性が我利我利だからです。
声聞乗は自利を自らの為にし、仏乗は一切を益す。
そのような「前科」も大乗経典という伝統からの「飛躍」の一因であろう。
これも、これをもって大乗経典はすべて後世の創作と断定するには、極めて根拠薄弱です。
話が少し反れてしまいましたが、そもそもの自分の解釈が合っているか知りたかったので質問させていただきました。
とりあえず小乗仏教という言葉は大乗仏教側が用いる差別用語なので、使用を控えようというのが昨今の流れです。
重要なのは、釈迦の教えを正しく理解したかという点です。
どこが違うか。
小乗仏教は出家者自身のみが救われるので、僧侶となり経典を読む者が、高度な学問を修得している必要がるサンスクリット語ではなく、より一般的なパーリ語が選ばれたのだと認識されているのです。
それで、大乗仏教の人が行う「 」には、 小乗仏教の人たちが行う「 」にはない、 「 」が一番最初にあるのです。
大乗とは、偉大な教え・優れた教えを意味している。
顕教(けんぎょう) 宇宙仏を毘盧遮那仏(ぶるしゃなぶつ)といいます。
しかしインド本土における大乗の勢力は微弱で、西暦四~五世紀になっても伝統的部派仏教に寄り添う形で存続していたようだ。
「上座部仏教」は「大乗仏教」のことを「改変を行いすぎた結果、本来の釈迦の教えから離れてしまっている」と批判することもあります。
その為、 当時は斬新であった在家での帰依を認めた珍しい宗教でもあるんです。