それをすごく私は恐れています。
もし相談者が「それでもいい、私はいつもその時代において他人から最大の評価を受ける職業に就きたい」と答えるなら、私がさらに言いたいことは、そのためには全身で努力する必要がある、しかも報われないことを覚悟しなければならない、ということです。
われわれはある意味傲慢だからいいのであって、謙虚すぎて自分のことをまともに見てしまう人はうまくやっていけません。
現在は、作家として活動。
とにかく自分の好きなことをやろう。
こういう人は続くんです。
哲学というのは病的なイメージが強いから、油断していると病的な人がワーって来ちゃうんです。
「なら、結局何も残らないの?」 この問いに中島義道先生は 「はい」 と答えます。
その自分がいなくなれば、認知されるべき対象としての世界も存在しないのです。
しかしながら、宮崎氏が挙げた「感覚や意識そのものの消滅」を思い描くことによるおぞましさは、生きている限りほとんど逃れようがない試練のようにも思える。
おれが恐い死は、この短い生のあと、何億年も、おれがずっと無意識でゼロで耐えなければならない、ということだ。
些細な問題の方が人間的ではるかに困難 そして、誠実であろうとするなら、偉大な問題より些細な(卑近な)問題のほうがはるかに人間的で、はるかに困難なことがわかります。
なおFr2はこれまでどおり1コマ2000円ですので、総額を出すときには外してください。
中島義道氏は川崎市立西中原中学校を卒業後、東京教育大学(現在の筑波大学)付属駒場高校をを受験するのですが、不合格になってしまいます。
まもなく「無」の議論に入ります。
『非社交的社会性 大人になるってこういうこと(講談社現代新書、2013年刊行)』にも、そんな人たちについて書きました。
人と一緒に大部屋で仕事なんてできない。
もちろん無料ですので、ふるってご参加ください。
もはや何かを見たり、聞いたり、触れたり、食べたり、嗅いだり、思い出したりすることができない。
涙と鼻水でぐしゃぐしゃになりながら、何もかも終わったかのような巨大な虚無感に圧倒されていた。
私には、今でも自責の念を感じていることがありましてね。