まず動詞を「ます形 連用形 」にします 読みます 食べます 来ます• 具体的にどこが「大きくなさそう」なのかサッパリわかりません。
この文は、「言葉の変化の先頭を切る大人」がいて、その大人に対する苦言だと受け取りました。
まとめ ら抜き言葉は合理的な使い方として、進化した結果のものだという印象を受けました。
筆者も普段はら抜き言葉にならないように気を付けていますが、文章を読みやすくする・誤認をなくす目的で、あえてら抜き言葉にすることもあります。
マスの前を見ます 読[み]ます 食[べ]ます 来ます これは覚えるしかありません• わざわざ手を貸す理由はない。
おそらくこの観点からは「い抜き言葉」は許容されてもよいと言えるでしょう。
教えるためには、「間違った」日本語現象も現実に存在する文法として研究・分析する必要があります。
可能・尊敬・受身の意味を考えなくて済む ら抜き言葉は、可能の意味でのみ使われます。
時代の流れのよって出来上がった表現であれば、その時代に沿って日本語の文法も変化が必要ではないかと思います。
小さな変化の積み重ねが大きな流れを作り、人間がささやかな抵抗をしたところで、とうてい止められない場合もある」と話します。
きっとどこかで聞いたことが頭に残ってて使うようになったと思います。
同感です。
投稿: 思い込み 思い入れ が強すぎて意義にも反論にもなっていませんよ。
ところが、その関西人が所謂「標準語」を話すときには「見れない」「来れない」というように、東京の人よりも比較的ラ抜きが進んでいることは興味深い事実です。
「み」は「イ音」「べ」は「エ音」ですね。
「ら抜き言葉」を一過性の乱れと見るか、進化の過程と見るか。
まさにら抜き言葉はその変化の過程にあるモノだと解釈しています。
ら抜き言葉の定義と歴史 文法上の「可能」の意味において、「見れる」「切れる」「食べれる」などの言葉が「ら抜き言葉」になります。
このようにTPOも絡んでいると思います。
尊敬は尊敬専用の形、受身は受身専用、そして可能もそう。
ら抜きの見分け方 動詞には3つのグループがあります。