高木彬光は「ノストラダムス大予言の秘密」(1974年)において、誤って リルケの言葉として紹介する。
万一無価値であったとしても、最愛の人と最愛の動物たちと抱き合って過ごせれば、生涯の終わりに相応しい幸福です。
そんな話だ。
この言葉が、広く世間に広まるきっかけを作ったのが、ルーマニア生まれで、1944年のソ連のルーマニア侵攻の際にフランスへ亡命した詩人・作家の コンスタンチン・ビルジル・ゲオルギウ(1916~92)が書いた小説「第二のチャンス」(1952年原著、1953年邦訳)の巻末にマルチン・ルッターの言葉として引用されたことであった。
この言葉のルーツをインターネットでたどって行くと、その混乱ぶりに驚かされる。
宇宙を貫くカルマの法があるのだ。
これらの徳こそが人類を唯物論や因果論の呪縛から解き放ち、人間らしい生活へとみちびいてくれるのであり、そのことをエンデはここで暗示している。
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コンスタンティン・ゲオルギウの小説 「25時」に出てくる言葉らしい。
好きなものをお腹いっぱい食べて、幸せな気持ちのまま、世界最後の日を迎えたいという回答も多くありました。
したがって、何があってもいつまでも一緒だよと絆を結び直す。
音楽と旅行が大好きな27歳。
ゲオルギウ「第二のチャンス」筑摩書房(再版) たとえ世界の終末が明日であっても、自分は今日リンゴの木を植える・・・・・・ マルチン・ルッター 1966 梶山健編「世界名言事典」明治書院 <例えば、世界の終焉が明白であっても、自分は今日、リンゴの樹を植える> C.V.ゲオルギウ 「二十五時 」 1968 寺山修司「青春の名言 心さびしい日のために」大和書房 もし世界の終りが明日だとしても私は今日林檎の種子をまくだろう。
私がきっと後悔するのは、思いを伝えなかったことだから。
それには実質的な価値と効果があると考えます。
そして、次、どこの世界にいこうとも、蒔いた種は自ら刈り取らねばならない。
) C.V.ゲオルギウは、小説の中で、「マルチン・ルッターの言葉」としている。
とのこと。
これは昔から世界の多くの民族に共通してある概念ですから、無根拠の願望に過ぎないものなら、こうは共通しないだろうと考えるわけです。
柳田邦男は、1979年に「ガン50人の勇気」において、 「ドイツのルッターが語ったと伝えられる言葉」として紹介し、1982年には、 柳田氏は、西川喜作「輝やけ我が命の日々よ」の序に替えた文の中で、西川氏の手紙に 「ゲオルギウの言葉」 とあったことを示している。
神秘学的美しさを秘めた「明日、世界が終わるとしても・・・」の言葉 明日世界が滅びようが、魂は永遠だ。
開高健は、この言葉が気に入り、 「自分は」「私は」を意図的に「あなたは」「君は」に変更して、求めに応じて色紙に書いて紹介するようになる。
大切な人に大切だと伝えたいのです。
」 追記 2007年のブログに探求の結果が表になってのっていました。